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始まりはいつも

   

4月は日本という国にとっては、特別な月です。入社式、入学式、そしてサクラです。公園での場所取りは恒例です。

私事で恐縮ですが、昭和61年の4月、中部労務管理センターの正式職員として採用されました。大学4年の9月から日給4000円のアルバイトとして勤務した上で卒業後、月給14万円での始まりです。
中学、高校、大学と一緒だった親友の勤務先が、労働保険事務組合であったことから、社会保険労務士(以下社労士と略します。)の存在を知り、とにかく社労士になりたい一心で大学4年5月だったと思いますが(現在試験日は8月)、第17回の社労士試験を受験しました。受験者11、000人、合格率11%で奇跡的に合格しました。現在は第55回で受験者42、741人、合格率6.4%です。

試験後は求職活動を開始し、公共職業安定所で入手した労働保険事務組合を営む社労士の電話番号に片っ端から連絡をしました。少しでも興味をもってくれた社労士の方の事務所にはすぐに行って面接をしていただきましたが、学卒を雇える余裕はないと断れ続けました。最後にはコピーした履歴書を40数名の社労士事務所に送付しました。すると、お盆前に気の毒に思って「コピーではだめよ」と電話をくれた女性の社労士の先生がおられました。お盆後面接をしていただくと、なんと中部労務管理センターの所長と面会の機会を作っていただけました。恩師亡き西野敏夫先生(以下先代といいます。)は、私のコピーの履歴書をゴミ箱に捨てたことをご本人から入社後教えられました。正職員になるまでに2社お客様を失いました。その時に、先代の言葉を忘れることはできません。それは、「2社で済んだか」でした。どれだけ救われたか今でも感謝しています。

私がアルバイト入社したときの職場環境は、直属の先輩が1名、事務職が1名、非常勤的社労士の方が2名でした。見習い入社した8月末までに4名の社労士の方々が独立したばかりで、常勤は素人集団に近い状態でした。とにかく独立した先輩を頼るな、質問は役所にでした。そんな中、はじめて社会保険の新規適用手続きをはじめからおわりまで自分で行い、社員の方達の健康保険被保険者証をお客様の会社に持参した時は、誇らしい気持ちで一杯でした。また、就業規則の依頼を突発で受け、深夜までかけて作成し、持参して説明出来た時の満足感は、その後顧問先になっていただいた嬉しさと同時に記憶に鮮明に残っています。そして、セクシャルハラスメントの研修を広島、福岡、大阪、東京、名古屋と担当の取締役と一緒に回り実施し、研修後の現地の責任者との酒席は忘れられません。今でいうパワハラが横行していましたが、そこには笑顔が満ち溢れていました。

あれから38年が経過し、また4月がやって来ました。あの頃の誇らしい気持ち、満足感そして満ち溢れる笑顔を頂戴できる仕事をし続けているでしょうか。お客様あっての仕事をもがきながら必死になって追究しているでしょうか。凡人は体験し続けるしかありません。頭で分かっても行動しなければ身にはつきません。始まりはいつも ” とにかくやってみる ” です。やってみなければ結果は見えてきません。今年も私はやり続けます。

 

 

 

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